原爆死没者北海道追悼会
2008 / 08 / 06 ( Wed ) 高野です。
今回は、毎年広島に原爆が落とされた8月6日に行なわれている原爆死没者北海道追悼会へ参加しての報告をしたいと思います。 ちなみに、今回の司会者はFoRPのメンバーの一人でした。名前出して言いのかわからないので、Yちゃんお疲れ様です。司会、良かったです。 (さらにちなみに、この記事書くの二度目です。つまり、一回書き上げたのにフリーズして、書き直しです。超私的なことですが、どうしても書かざるを得ないほど怒りを覚えたので、書いてしまいました) さて、それでは報告に入ります。 最初に、追悼会の前に「『あの日』を語り継ぐつどい」が行なわれました。次第は、実行委員長挨拶、私の被爆体験、平和への願い、朗読劇、合唱です。 この中で、特に重要だと思うのが、私の被爆体験でお話を聴かせていただいた、糸沢さんという被爆者の方のお話です。かなり長いですが、内容を紹介したいと思います。 糸沢さんは、被爆当時18歳で特攻隊の訓練のため広島へ来ていました。 原爆投下時には、裸電球が一つだけついている暗い部屋の中で軍事教練を受けていました。急に爆弾が落ちたような大きな音がし、教官の「退避しろ!」という声で全員が近くの防空壕へ逃げていきました。そのときの様子を「おしりのすぐ後ろに爆弾が落ちたようだった」と糸沢さんは形容しています。 仲間が逃げているときに、糸沢さんは裸の状態で、こんな恥ずかしい姿で死にたくないと思い、軍服を取りに部屋まで戻ってから、防空壕へ向かいました。しかし、防空壕には200人の兵隊が入り、糸沢さんは中に入ることができませんでした。 その後、糸沢さんは、広島の近くにある島へ上官の命令で向かいます。島にいる人達を看病するということでしたが、上陸すると同時にショッキングな光景を目にします。 原爆の被害にあい、体中が焼け爛れ、口と目と鼻がどこにあるかわからないほど顔の肉が膨れ上がり、手の下にもう一本手が生えているぐらいに腕の皮膚が垂れ下がっているというような人達が口々に「兵隊さん、助けて」と助けを求める。それを見て、「人間じゃない」と糸沢さんは思い、思わず引いてしまったと言っていました。 糸沢さんは、その人達の身元を確認し、確認できない人は性別などわかる範囲の情報をメモし、人々を建物の中に運んでいきました。その数500人くらいだったそうで、そのうち50人を糸沢さんは担当することになりました。 しかし、当時人体の3分の1が火傷してしまうと、助からないと言われていたという状態だったので、助けることはできず、できることは死を看取ることぐらいだったようです。 親のいない一人きりの幼い子どもは、痛みに泣き叫び、母親を求めました。そこで糸沢さんが、優しく抱き締めると、本当に母親に抱き締められていると思ったのか、安心したように静かになり、そしてそのまま亡くなっていきました。そのときの感触は、今でも覚えているそうです。 また、ある人から「カタキを取ってくれ」と言われたことを紹介し、もう2度とこんな過ちをくり返してはならないということを決意し、そのためにこういう場所で自分の体験を語ることがカタキを取ることに繋がる、と述べて糸沢さんのお話は終わりました。 その後の平和の願いでは、「被爆ピアノリサイタル」という運動をしている高校3年生の方が、運動を通して感じたこと・思ったことを率直に述べていました。こういう活動もあるんですね。実際に、被爆ピアノを聞いてみたいです。 さて、次に、追悼会の報告に入りたいと思います。 追悼会は、最初に黙とうから始まり、開式の辞、読経、追悼の辞、献花、平和への願い、全員合唱、閉式の辞という流れでした。 ここでは、いろんな方々の被爆、被爆者、戦争、核、原爆に対する思いが聴けて、新鮮でした。特に、追悼の辞では、関連する各団体からのお話が聴けたのですが、それぞれの役割から見たお話が聴けて、いろいろな分野で共同して活動していくことの重要性を実感しました。 原爆被爆者追悼会は、追悼会ということもあり、他の平和企画と比べて、厳かな雰囲気の中で行なわれていました。こうした雰囲気の中で、亡くなられた被爆者の方たちを前にすると、自分はこの人達に答えられるような、この人達を救えるような活動をできているのかなーと思ってしまいます。 振り返ると、なんとなくテキトーにこなしていた部分もあったのではないか。そういう反省もでき、また、改めて戦争の重さ、核の重さ、被爆の重さを実感し、FoRPを含めた平和活動の大切さを再認識することができました。 以上、報告終了です。高野でした。 |
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